マスクなんてほとんどつけたことのなかったぼくが、
いまではマスクをつけることがすっかり習慣になってしまった。
うっかりすると、マスクをつけていることさえ忘れてしまい、
最初の頃、洗面所の鏡に映った自分を見て、
「おっ、俺がマスクをつけてるぞ」
と、妙に感心して見入ったりする。
ちょっとした別人である。
これが自分なのかと、変な気持ちになる。
いつのまにか、立派なマスク中毒症になってしまっているではないか。
笑いごとではすまされない。
それもこれも、みんなコロナ様のせいなのだ。
いつ頃からマスクをつけはじめたのか。
考えてみれば、まだ、たかだか3年足らずである。
コロナで周囲がざわつきはじめた頃、あわててマスクを買いに走ったら、
すでにマスクは姿を消していた。
そうこうしているうちに、わたしの居住するS市の中心部でクラスターが発生した。
それからアッという間にS市は、
県内でダントツのコロナ感染者発生地になってしまった。
勤務先でも、S市から通ってくるぼくのことを心配して、
「だいじょうぶですか」と聞かれたりした。
しかし、いまでは、そのS市のコロナ感染者数ランクは、県内でも、
ぐっと下位に行ってしまった。
そんなことで競ってもどうするのか。
正直なところ、すこしだけ、悔しいような気がしないわけでもない。
いまやコロナはすっかり日常になってしまった。
マスクをつけることが、立派な習慣になってしまった。
わずか3年足らずで、すべてがコロナに支配されてしまったのだ。
この見えない敵に、ぼくたちはどう対処すればいいのか。
三密を避ける。
消毒をこまめにする。
当たり前のことをするしかない。
マスクをつけていると、妙に安心するところもある。
もともと感情がバレバレになる口元が隠れてしまうので、他人の心理状態を読むことが難しくなるのだ。
逆に、こちらの心の内もバレずに済む。
「どうも、ありがとうございました」と、お礼を述べながら、
(あっかんべえ)
と掌を返しても、相手には分からないで済む。
かもしれない。
本音と建て前をおおっぴらに使い分けることができる?
もっとも、これはマスクとは関係ないか。
大げさにいえば自分の生き方の問題だ。
犬を散歩につれていくとき、ヒゲを剃らなくても無精がばれずに済む。
ぼくにとっては、これがいちばんありがたい。
いつだったかテレビで、どこかの国で外出制限が解除され、
マスクがいらなくなったというニュースをやっていた。
キャスターが、「やっとマスクから解放され、自由を取り戻しました」
というようなことを真顔で述べていた。
えっ、マスクが自由を奪ったの?
ぼくは妙な気持ちになった。
ぼくにとってマスクは、いまや必需品であり、それこそ顔になじんだ『お面』のようなものなのだ。
マスクによって自由が奪われるという感覚は全然ない。
『マスク』いうお面をつけた役を演ずる。
ただそれだけのこと。
それも悪くないか。
マスクは今ではどこにでも置いてある。